イタリア中部地震の記事の書き起こし及び翻訳を行っています。
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フリージャーナリストの安田純平さんのことについて、「自己責任」といった論調は絶対に間違っていると思う。
私が「出葉@ラクイラ愛好会」を名乗りイタリアの(ラクイラに限らず)被災地の「いま」を発信できるのは、イタリアからの報道があり、イタリア人がフェイスブックやツイッターなどで、被災地の「いま」を発信しているからだ。
彼らの声がなかったら、報道がなかったら、私達はイタリアの被災地が「復興した」と思い込んでしまうし、私達は震災を忘れてしまう。
それと同じことは、戦災地からの報道にもあてはまる。
被災地の「いま」を知り、被災者の感情を知るには、被災者の声や、被災地からの報道がどうしても必要だ。
それにより、例えばモリーゼ地震の被災者が16年たった今でも地震の恐怖を強く感じていることなどを、私達は知ることができる。
知ることができれば、被災地のことを想像し、動くことができる。
被災地に対して動くとは、例えば募金をするとか、パスタを食べに行くとかだ。
それにしても募金先がわからなければ募金すらできない。パスタの支援情報がわからなければ、パスタを食べに行くこともできない。
私達は動くときに、行動するときに、情報を必要とする。
戦災地からの情報をくれるのが、例えば亡くなった後藤さんや、今回解放された安田さんだ。
彼らからの報道がなければ、私達は戦災地の「いま」を知ることはできず、戦災地の人々のことをより深く考えたり、戦災地の人のために動くことはできない。
そして、その情報が私達に気づかせることは、私達は同じ人間であるということ、私達の抱える感情は驚くほど同じであること、そして私達は対話を通じて分かり合うことができるということだ。
ある日、突然ナイジェリア人がTwitterで私をフォローして、ひととおり互いの自己紹介などをしたあと、こう言った。
「私はナイジェリアに住んでいるが、近くに食べ物や飲み物を買える場所もお金もなく、私は遠い場所にある川まで水を汲みに行かなければならない。じゃあね。また後で。」
それから、私が日本に住んでいることを知ると、「日本は安全だし、豊かだし、とてもいい場所だよね。私も日本に行きたいが、お金がない。欧州でも日本でもどこでもよいが、とにかくここから逃げられるお金がない。」
本日(2018/10/28)の朝日新聞によると、やはり欧州に憧れる人々は多いようで、欧州に行けば幻想的に思えたような豊かな暮らしができると思っているようであった。(そして、それは本当だ。)
なぜその人がTwitterができるかというと、欧州に行くための情報を収集しているのだという。ネット環境がある貧困層はアフリカに多いのだ。
彼が日本に来たいというので、私は日本に来る費用さえ工面できたら(これはgofundmeなどでどうにかなると伝えた)、運が良ければ「外国人技能実習制度」というものがあると言った。もちろん、それがどれだけ酷いものか―「現代の奴隷制」と揶揄されていても―をひととおり語った上で、
「福島第一原子力発電所の廃炉作業?過酷な肉体労働?どんな仕事でもします。」
そう彼は言った―外国人技能実習生がどんなに過酷な環境に置かれていようと、彼の暮らしはそれより酷いのだ。
愕然とした。
外国人技能実習生の高い過労死の割合、自殺、何も知らされずフクイチの廃炉作業を強制され…それに救いを求めるほど、彼の置かれた環境は酷いのだ。
イタリアにおいて、移民に賛成している人と反対している人の意見を紹介する。
双方ともラクイラに住んでいる。
賛成派の友人から言われたのは、「人道的な支援」という言葉だった。
飢えて亡くなるアフリカのこどもたちや、欧州移住を目指して亡くなった夢を持った移民達のことを聞くと、とても胸が苦しくなるという。
「彼らが私達の街に来ればよいのに」と友人は言っていた。その街がまだ地震から復興していないにもかかわらず。
反対派の意見としては、「イタリア人を優先すべき」とのことだった。
友人は震災後失職中だという。無能なイタリア政府が被災者に何もできていないのに、よその国の人を救う必要など、ないとは言わないが、薄いということだった。
ご存知の通り、日本では外国人(とくに、中国人と韓国人)へのヘイトスピーチが、Twitterなどを通し毎日のように行われている。(この事実を疑う人は、1度Twitterで「反日」「チョン」「支那」などの(侮蔑)語を検索してみてほしい。)
イタリアは近年「五つ星運動」が勢力を伸ばし、サルビーニさんが政治を動かすようになってから、人種差別が表面化したといわれている。
ただ、日本にいる限り、イタリアの人種差別がどんなものなのかを知る機会はほとんどない。
そこで、以下、友人(※イタリア人で、日本語を学んでいる)とのチャットの内容を、簡潔に示す。
私: イタリア人って外国人にも優しい人が多いよね。イタリアに限ったことじゃないのかもしれないけど...日本では外国人というだけで差別の対象になるよ。
友人: 日本人にも優しい人が多いって聞くけど...私はイタリア人が優しいとはあまり思えないな。
私: もちろん、大半の日本人は優しいし、(私がTwitterやFacebookやその他いろいろなところで知り合った)大半のイタリア人は優しいよ。でも、日本人の一部は「外国人(とくに、東アジア出身の人)」にとても冷たい視線を向けるんだ。
友人: なるほどね。でもイタリアにもヘイトスピーチはもちろんあるよ。
イタリア人は偽善者(表面的にはいい人に見えるんだけどね)で、政治家の言葉を聞きたがらないんだよ。
多くの人々は、「私は人種差別主義者ではないけど、いざ中国人を見れば、私は彼を侮辱することが許されている」って心の中では思ってるんだ。残念ながら。
私の友人が「もしも、私に息子がいて、彼が同性愛者であったならば、表面的には同性愛差別を反対し、息子を愛してるように見せるけど、内心は私は彼を死に至らせたいと思っているだろう」と言っていると聞いていたことがあるけど、つまりは、政治が好きではないということなんだよ。そして、偽善者なんだ。
私: 日本人(の若者はとくに)も政治に無関心で、政治に興味が無い人間が多いよ。政治の話をするだけで露骨に嫌がる人も多いから。「私は、左翼とか右翼とかあんまわかんないし。(´∀`)」みたいな人も多いよ。
友人: こっちも同じだよ。イタリア人はちゃんと本や新聞を読まない。でも、ここで皆はあなたの人種や、人種的な特徴をからかう準備ができています(例えば、青空市場でアジア系の人に会うと、とりあえず「你好!(※中国語で、こんにちは)」って言うからね。とくに年配の人は。でも、最初あなたは、イタリア人は優しい人が多いって言ったよね。それは、あなたが話している人によって異なるんだよ。
私: なるほど。私が最初「イタリア人は優しい人が多い」って言ったのは、たまたま優しいイタリア人にたくさん接したからで、あなたが最初「日本人は優しい人が多い」って言ったのもそういうことなんだよね。結局は。
友人: うん。ほんとにそうだよ。でも、日本のほうがヘイトスピーチを法で取り締まるのは遅れてるし、敵意むき出しのTwitterとかでの投稿を削除することにも、日本はかなり遅れてるよね。あなたが、イタリア人の右翼と接したことがあるって前に言ってたけど、それでもヘイトスピーチを(あまり)見なかったのは、ヘイトスピーチを取り締まる法律からのアプローチが日本よりうまくいってるからだと思う。あなたが、イタリアの汚い面を最初から見なくて済んだのは祝福すべきことだ。でも、それは事実じゃないんだな。
(後略)
ここからわかることは、まあ当たり前の結論なのですが、
[日本にもイタリアにも、人種差別はある]ということです。多かれ少なかれ。
でも、この日本にも、やっと近年になってヘイトスピーチを取り締まる法律ができた!
最終的に私たちは、「国籍ではなく個人として人を見ることで、人種差別は解消される」という結論に落ち着いた。