イタリア中部地震の記事の書き起こし及び翻訳を行っています。
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私があの痛ましいダッカ周辺ビル崩落事故のことを、ラナプラザ「事件」と呼ぶのには訳がある。
あれはただの「事故」ではない。
あれは、間接的な、「他殺」だからだ。
日本を含め先進国に住む我々が、我々の「少しの安さ」や「少しの便利さ」のために、彼等を犠牲にしたのだ。
ラナプラザ事故について知らない方は、この記事を読んで頂きたい。
私たちの手元に、途上国の労働者を酷使して作られた500円のTシャツと、途上国の労働者の人権を尊重して作られた、エシカル(倫理的)な3000円のTシャツがあるとする。
そんなとき、おそらく多くの人が安い方を選ぶだろう。
だが、それは「安いから」という理由で、どこか遠くにいる労働者を迫害し、間接的な死をもたらしていることになりうるのだ。
そもそも、私たちは、いまTシャツを必要としているのだろうか?
「可愛らしいから」「少しばかり古くなったから」「デザインが気に入らなくなったから」
そういった理由で、私たちは服を買う。そして、消費する。
家にあるもので足りないだろうか?
工夫をすれば使えるものでないだろうか?
「大量生産、大量消費」は、地球環境にも壊滅的な痛手になる。
私たちに必要なのは「パラダイムシフト」つまり、劇的な価値観の転換なのだ。