イタリア中部地震の記事の書き起こし及び翻訳を行っています。
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昨年4月、ラクイラ地震から9年になる春、私の友人はこう言っています。
「傷はまだ癒えていない。鮮明な記憶はすぐ隣にある。たとえ何年経とうと、この日(4月6日)が来るたび、私はあの日のことを思い出す。
また別の友人は、こう言っています。
そして私の一番の友人は、北海道で地震が起きたときに(2018/9/6)、こう言っています。
あなたは大丈夫?(中略)私は「地震」という言葉を聞いただけで、心臓が止まってしまうかのように苦しくなるの。
これはすべて昨年(2018年)に、私が直接友人達から聞いた言葉です。
何年経とうと、ラクイラの光景は、そして彼らの心の中は、何一つ変わっていないのです。
それでも、平穏なはずの「ラクイラ市民の会」という集まりの中で、たまに地震の話をする人たちがいます。その集まりはインターネット上でのグループなのですが、そこの管理人さんが今回最初に言葉を引用した人なのです。
管理人は彼らに対し、何も注意さえしないのです。
私はその光景にすごく疑問を感じていました。
「なぜ、地震のことを思い出しただけでこんなに苦しくなる人がいるのに、彼らはPTSDを持っていて、フラッシュバックが起きるかもしれないのに、なんで、この『ラクイラ市民の会』というグループで、地震について情報を載せる人たちを止めないの?やるならほかでやって!」と私は思っていました。なので、それをあくまで「私の意向」として、それを管理人にWhatsAppで伝えてみました。
すると、すぐに管理人さんから返事が届きました。
不幸なことに、ラクイラは地震の多い地域である。(※)君の言う通り、地震について発信することは多くの人たちをいまでも大いに悲しませる。
それでも、この『ラクイラ市民の会』は、たとえラクイラに住んでいなくても、例えば君のように、「ラクイラを愛する人」全員に扉が開かれている。
そして、この街を愛するということは、この街で起きた悲しい記憶をも忘れないでいるということである。ラクイラは地震の多い地域に位置しているから、また悲しい出来事が、いつか起きてしまうかもしれない。それはこのグループの趣旨である「この街を愛するということ」の一部である。
日本では震災の報道をするときに、「がれき」という言葉を使わないようにしようという動きがある。それは被災者の感情に配慮しているからであり、「がれき」という言葉に含まれる「ごみ/がらくた」というものが被災者に失礼だからという理由である。
だが、イタリアではこのような議論を全くと言っていいほど見かけない。
高村光太郎さんの詩集「智恵子抄」の中の「報告」という詩では、がれきのことを「文化のがらくた」という表現をしている。
※違うかもしれないが、私はそう解釈した
私はよく小説を書くが、その際はあまりにも直接的すぎるので「日常の破片」と呼ぶようにしている。
日本では、東日本大震災以後「倒壊した建物」と言い換えようという動きが加速している。
だが、イタリアにおける地震の報道を見ていると、日本語の「倒壊した家屋の下敷きになり……」といったニュアンスの言葉がないことに気付く。
イタリア語では常に「sotto le macerie(がれきの下敷きになる)」という表現をする。
英語で言うところのunder the rubbleであるが、なぜイタリアには「倒壊した建物」といったぼかした表現がないのだろうか?
ここでイタリア語の辞書(手持ちの「プリーモ伊和辞典」)を引いてみる。
maceria (多くは複数形macerieで)
(倒壊した建物の)残骸、破片、廃墟
il terremoto ha ridotto molti edifici in macerie.
地震で多くの建物が瓦礫化した
こう書いてある。
ここで日本語の「がれき」の意味を調べてみる。
意味・定義 類義語 破壊されたもの、またはばらばらにされたものの残骸 砕片 ごみ くず がらくた くず物 屑 屑物 破片
「被災者(この表現にも私は違和感がある。なぜなら彼らは地震が起きる前は「被災者」でなかったのに、そんな安易な言葉でひとくくりにしていいのか?という疑問からである)の愛する自宅などをこのように呼ぶのはいかがなものか」という世論が東日本大震災以後相次いでいてNHKはこのようなことを言っている。
「がれき」ということばの使い方について考えたい。今出版されている国語辞典の大部分で「がれき」の意味は「①瓦と小石」「②つまらないもの」となっている。小委員会では「がれき」には「価値のないもの」という意味があり,「本人にとってはきわめて大事なものも入っているかもしれないのに,それをがれきということばで片づけられてしまうと違和感がある」と心配している。
引用元
https://www.nhk.or.jp/bunken/summary/kotoba/yougo/pdf/080.pdf
だが、イタリアにおいてこのような議論は聞いたことさえない。
なぜなのだろうか?
私はその糸口をつかみたくて、友人たちに質問してみた。
あるイタリア人は、macerieという単語の由来はラテン語であると述べた。
そして、彼はこう言った。
瓦礫(macerie)は「ごみ(spazzatura)」を意味するのではなく、破壊された建物が地面に崩壊したもの、つまり残骸を意味する。 だから、"Macerie"は地震の被災者(i terremotati)に無礼ではない。
私はまだ納得できなかった。
別の友人はこう言った。
確かに、あなたの言うとおりで「ごみ」という意味も含意している(それが本意ではなく、メインの意味は「(倒壊した建物の)残骸」というプリーモ伊和辞典の意味だと彼も言ったが)から、私はあなたの意見に賛成する。
ただ悲しいかな、イタリアには「被災者の気持ちを傷つけない報道」よりも、「事実を端的に伝える報道」を優先する文化があるんだよ。これは日本人の思いやりとでも言うべきかな。
また別の友人はこう言った。
君の議論は全くナンセンスだよ。なぜなら君の話す日本語と私たちの話すイタリア語には差異があるからだ。そして、私たちは被災者にそう言った表現をすることはない。それは君もよくイタリアからの報道を見ているからわかるだろう。
日本では「被災者に配慮し、慎重に言葉を選ぶ」が、イタリアではそんなことはしない。なぜかって?それは不要だと多くの国民が思っているからだよ。なぜかは私も知らない。ただ、私たちは日本を見習わないといけないね。"macerie”という言葉はあまり被災者にとっていい言葉ではないから。
こんな意見もあった。
そもそも私たちは災害に慣れすぎていて、悲しい報道を聞いても心がマヒしてしまう国民性なんだ。悲しいことがあっても私たちはすぐに忘れてしまう。だから私たちは多少強い言葉でもそれを表現しなければならないんだ。
また、こんな意見も聞くことができた。
私は全くそんなことを考えたことがなかった!確かに君の言うことはごもっともだよ!日本には確か「言霊(ことだま)といって、言葉に生命が宿っているという考え方があるんだよね?私たちもそれを見習わなきゃ!汚い言葉や、意味が強すぎる言葉は避けるべきだね。
結論、この問題もやはり「日伊文化の違い」とひとことで片づけてしまうものになるのだろうか……。報道の在り方が両国でかなり異なっているのが本当に興味深い。
一般的に、欧米では「地震などの報道を、そっくりそのまま報道する」といわれる。
それはつまり、倒壊した建物や、生存者を救出した瞬間や、その他言葉にならないほどひどい映像を、「そっくりそのまま」報道するということである。
日本では、ある程度の規制(BPOなどによるものなのだろうか)があり、とても悲惨な画像を流す前には「ここからは悲惨な映像が流れます」とか、「津波の映像が流れます」といった文章、つまり「トリガー警告」が発せられる。
イタリアには全く、そのような文化はない。
そして私はずっと、その「そっくりそのまま報道する理由」がわからずにいた。
報道を見るだけでも惨事ストレスなどによりPTSD(心的外傷後ストレス障害)を発症しうるので、あまりにも悲惨な報道は自制されるべきであり、自制されている日本の報道体制は間違っていないと思っていた。
なぜ、イタリアでは地震により自殺をする方がいる(震災自殺)くらい追い込まれている人々もいる中で、「地震の悲しい映像をそのまま流すのか」ということ、それが私の疑問だった。
その問いへの答えにつながる有力なヒントは、偶然わかることになった。
「アブルッツォ州やラツィオ州、モリーゼ州などイタリア中部の素敵な風景を載せる」FB(フェイスブック)グループに私は参加している。
そこで、突然アマトリーチェの震災に関する画像を載せた人がいた。
投稿日時は11月24日。
でも、月命日(※震災が起きたのは2016年8月24日)だからといっていったいなぜ、この平和なグループに「トリガー警告」つまり、「これから震災の画像を載せます」といった警告もなしに、彼は画像を載せたのか?
気になったので、私は彼にメッセンジャーで聞いてみた。
送ったメッセージはこうだ。(※原文はイタリア語)
突然すみません。私はあのグループに入っている出葉(※ここは本名になっているが)と申します。
本日あなたが投稿した震災の画像の意図は何でしょうか?
私も、あの震災を忘れてはならないと思いますし、思い出すことは必要だと切に感じています。
ですが、このグループの会員のうち多くはイタリア中部に住んでいて、あの震災の悲しい記憶があるはずです。
なんの警告もなしに(警告とは、たとえば「震災の画像を載せます」などといったことです)あの画像を載せるのは、あの震災で心を傷つけられた人たちにとって良くないと考えています。
私は日本に住んでいますが、当時あの映像を見て本当に悲しくなりました。
そして日本には、東日本大震災などの映像を流す際、「津波の映像が流れます」という警告があり、本当に映像を見たくない人は「津波の映像が流れます」という警告を見て、テレビを切ることができます。
あなたの意見を求めます。もしよかったら返事を下さい。
すると、彼はこう言った。
確かに君の意見はわかる。思い出すだけで苦痛になるという人がいるのもよくわかる。第一、私がそうだからだ。
もう少し私は画像を載せることに慎重にならなければならなかったかもしれない。
ただ、私の意見を言わせてもらいたい。
私たち人間は、簡単に物事を忘れてしまう生き物だ。それがどれだけ悲劇的であっても、それがどれだけ忘れてはならない出来事であったとしても。
現に2016年8月24日のあの震災のことを誰が覚えているだろうか?
私たちは思い出さなければならない。そして、思い出すためには画像や映像のほうが手段として適している。文章だけでは悲惨さが伝わらない。
そして私たちはこのような映像に暴露されることに慣れている。事実あの震災の日も躊躇なくひどい映像が流れていた。
君の意見もわかるけれど、やはり私はあのような画像がないと「衝撃」が、「悲惨さ」が、つまり覚えていることが難しいのではないかと思う。
そうか。
彼は、「悲惨さ」、つまりあの地震がどれだけ恐ろしいもので、破滅的なもので、壊滅的なもので、ひどいものだったのかを言いたかったのか。
それでも、私は少し納得できずにいた。
アブルッツォ州やラツィオ州と言えば、あの地震(イタリア中部地震)で被害を受けた場所である。つまり、彼らの中には思い出すことさえ苦痛な人もいるはずなのだ。
現に、私がそうだ。あの震災のことを聞くと今でも私は胸が抉られるような悲しみに包まれる。
そこで、私はさらに尋ねた。
私は日本に住んでいるが、日本では必ずこのような警告がある。『これから、津波の映像が流れます』といった警告だ。
イタリアにはそのようなものがないと聞いた。
それは本当だろうか?
イタリアでは、日本よりも悲惨な映像や画像をそのまま流すとも聞いた。
それはあなたの言う通り、「悲惨さ」を伝えるためなのだろうか?「事実」を伝えるためだろうか?
あの震災で被害を受けた人は、思い出すことさえ苦痛なはずなのに、いきなり悲しい映像を見せられたら、最悪の場合、つらい記憶のフラッシュバックが起こるかもしれない。
そこについてあなたはどう思う?もしよかったら返事を下さい。
彼はすぐに返事をくれた。
さっきも言った通り、私達は文章だけでは忘れてしまう生き物だ。
フラッシュバックが起こるほどつらい思いをしている人は、そもそもトリガー(引き金)にかかわるものを避けるはずだ。
だから、私は皆にあの震災を思い出させるために投稿した。
なるほど、と思った。
彼は以前報道局で働いていたとも、のちに教えてくれた。
「事実を伝える」ことを優先するのがイタリアで、「被災者の気持ちに配慮する」ことを優先したのが日本である。
これが私が導き出した結論だ。
「事実を伝える」ことを優先した結果、その報道は悲劇的なものになり、日本ではその逆が起きている。
なるほど!
もっとこの話題を知りたいあなたへ
イタリアと日本の地震報道のあり方 参考資料 - 出葉の調色版@ラクイラ愛好会
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